昭和45年9月24日 朝の御理解(担当者:美恵)
第41節
「信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。」
「信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。」いかに金光様のご信心が話を聞いて助かる道かと、いうことを、まあ、裏付けにしたような御教えだと、ね。ま、金光様のご信心は話ばかり、いわゆる御理解ばかり。そこで、その御理解を聞くだけではいけない。それが、聞くだけが能じゃないと、こう、言っておられるわけですね。「わが心からも練り出すがよい」いかに、話をよく聞き、しかもその、聞いたお話を、心の上にも形の上にも、行じていくということ。この練り出すということは、そういうことだと、ね。練り出すがよいと。えー、頭で分かったことを心にそれを実感する。(?)感じること。ね。それが実際行うことになる。そういうことが、こう、練ることだと。練り出すこと。ね。(?)いわゆる、えー、そのー、おー、御理解というものは不思議なもんで、そのー、難しいところが分かったからおかげでもないですよね。こりゃもうそのー、(?ねだは?)のところでもです、もう思いもかけないところを有難いと思う人がおる。やはりその、信心の程度であり、理解力の程度ですから、んなら、そのー、信心の程度が高くなっとればおかげを受けるかというとそうじゃない。ね。理解力が、あっちゃあるから、おかげを受けなさるということでもない。ね。それは、理解力があんなら、「もういくら言うて聞かしてもあんた分からんの。」というように、分からない人でもです、ね、そりゃ、とんでもないところを(?)言っとりますけれども、やっぱりそれでおかげを頂く。御理解の功徳というのはそんなもんだと思うんです。ね。ですからもう、おー、信心のおかげに直結するということは、頭とか理解力とか信心の程度ということは決してないですね。いわゆる「練り出すがよい」という、その人なりに、やはり練り出していかなきゃいけない。やはり、その人なりの頭脳で解釈する。その人なりの心の状態で、えー、それを、「はあーなるほどそうだなあ」、と実感する。そりゃあ、ある意味でですね、長くこうして御理解を説かして頂いて、「はあ、有難いなあ。ここんところ、ここんところを有難いなあ」と私が思うて説いておるけども、そこで私が有難いと思うところは、みんなに通じてない場合が、いつもあるんですよ。だから、「本当にこれほどしの御理解を頂きながら合楽の人達は、どこを分かっていきよるじゃろうか。」というて、思うたり、言うたりすることがあります。ね。けれどもね、しかしやっぱ、それでいいんです、おかげを受けていく。ね。「わが心から練り出す」もう、私は、金光様のご信心はというよりも合楽で信心の稽古をしておる人達は、とこう思うんですけれども、んー、話を聞くだけが能ではないということは、いかに金光様のご信心が話を聞くことに一生懸命になっておるかということです。だから話を聞くだけでそれを練り出しもしない、行じもしないところをいま、戒めておられるわけなんですよね。けれどもです、その、もう金光様のご信心(に?)、特に合楽ではですね、合楽でお話を頂くことを散漫にしたらね、もう、どんなに信心が高度であっても、もう、目を当てられんごと色彩を変えてしまうことですね。十日間合楽で、あの、お参りをしてきて、せんおってください、もうその人が言うておることは、もうこんなにずれて、ずれてしまっとるですから。もうこれは不思議です。というほどしにありますからね、やはり合楽の信心はもう、本当にお話を頂いた上にも頂き続けなければ、いわば合楽の信心に便乗していると、おかげを頂いていくということできないというような気がしますね。ね。いうならば、十日前の話どんしよった(ぶん?)じゃ、もう、みんなにピンとこんですから。例えば、ただ今んなら、願い願えといったようなことを言っとりますけど、十日前の願いと、今の今日、今言うておる願いということは、もう、大変内容が変わっておりますから。ね。やはり、信心の稽古というものは、ね、もう間断なく続けられなきゃならんということがわかります。もう本当にそうですよ。お日参り的な信心をしよらん人に、体験話なんかさせてごらんなさい、もう、いうならあの、味、いわゆる色彩がなーい味わいになってしまいますから。もう日々、今日の御理解をと、というように、その、その今日の御理解に取り組んでおる人の話(でなからなきゃ?)、合楽で受けません。( ? )。というほどしに生活全体が生き生きしたものを(?)しまいます。そういう意味で、皆さんもこうして毎朝、ね、おかげを頂いて、言わば、ですから、だから皆さんの場合にはどういう事になるかというと、話を聞くだけが能ではないぞということになるわけなんですよ(笑)。毎朝毎朝、ね、ま、言うなら朝参り頂いておられる方もあるぐらい。ね。「話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出せ。」と。昨日の朝の後に、北野の秋山さんが、あのー、お取次ぎを願われた事なんかは、もう日々参って、しかも日々それに取り組んでおるもんでなからなければ、ああいうお届け、お取次ぎを願われない、と私は思いました。ね。最近、願いという事が言われる。本当願わにゃ馬鹿らしかごとある。ね。そこで、例えば願ってみる。ところがその願いというのは、どこまでも、ね、ただ願いではなくて、世のお役に立ちたいの一念が願いになってこなければならないとか、または和賀心を持っての、その、それは願いでならなければいけないとか、または、その純真な、ね、童心の様な心で願うべきだ、それが願いの内容だというふうなふうに最近頂くですね。そこでですね、言うなら、いよいよご神前に向かって願ってみるわけです。そして、「どうぞ、世のお役に立たせてください。」ということの願いをするけれども、その願いが、一っつも実感として願えないというです。私はそれを聞かせて頂いて、「秋山さん、あんたが(?)そりゃ取り組んどる証拠よ。」って言って話しました。「実際取り組んでみると、本当にただ願う願うと言うけれども、難しい事が分かるよ。」って言ってお話したです。ね。そんなら自分が願っておるところの「世のお役に立ちたい」という一念といったようなものは、どげん美しい事を、口だけで言うだけならええけれども、心がそう言うとらなければ、心がそう思うとらなければならない願いになってくると、「先生これは大変難しい事です。」とこう言われる。皆さんもどうでしょうか。そういう難しさに、直面しておられるだろうか。もしそういう願いが(?おぼろげ?)しかし願いという信心もまだこれから、あー、まー、言うなら、いつまでこの願いの信心がかけられるか分かりませんけれども、やはり、これは練って練って練り上げていかなければならないものだなということが分かるだろうと。ね。昨夜の御祈念に、原さんがお参りされてから、「先生、私も願い、本当に願われると思うたら、本当に、もうちょっと心が、すーっとするぐらいに思うた。」って。「これは合楽の信心もいよいよおかげ頂かれるなとこう思うた。」と。「ところが先生、御祈念を始めて、いよいよ願い段になるとですね、丁度喉に物が引っかかったようにして、その願いが出てきません。」って言われる。(?)取り組んでおられる証拠ですよ。ね。願いに取り組むとそういう事に本当になるのが当たり前です。もしスルスル願われよんならですね、そりゃ、言うなら、実感のない願いであろう。ね。(?)伴なわない願いであろう。言うならば、我情我欲の願いでろう、という事にまでなるんです。あれほど、先生が願え願えとおっしゃるから、願うけれどね、その願いが喉に丁度物が引っかかったように願いが出てきませんとこう言う。むしろ、今までの信心のようにです、ただ和賀心を本気で見極めさせて頂いて、現在頂いとるおかげの中に、あれもおかげ、これもおかげと分からして頂ける事の方が、は、長年そのとこに取り組んできたから、すっすっとこう祈られるけれども、その先に、言うなら、どうぞと、なら困った事がないかと言うと、あれも頂きたい、これも頂きたい、もうあんだけ言うたその願いが、喉に詰まって出てこないとこう、ような感じだとこう。私、本当に素晴らしいと思うですね。その喉に詰まったものが本当にストッと喉から外れてです、願えれるようになった時がいよいよほんなもんだろうと思うです。どんなに思うても、世のお役に立ちたい、世のお役に立たせてくださいと願うても願うてもです、そういう一念、ね、そういう一念が、その、生まれてこないと。それが何かの調子にふっと生まれてきた時こそが、秋山さんの信心の、まあ言うなら、信心の歩みの成就だとこう思うですね。これは、私共もそれを、おー、感じます。これはもう合楽でも昔から、私の流儀として言うてきたことなんですけれどもね。例えばお願いをするでもね、本当に自分がそこに実感しておる事でなからなければ願えんのだと。痛いなら痛い、かゆいならかゆいと、その実感しておる事を願えと。ね。私共、えー、信心、以前の信心の御祈念の内容というと、もうちょっと御祈念の事は忘れました。忘れましたけれども、ね、第一、その、おー、天皇、皇后、両陛下の事、皇室の、おー、全部の皇室の御事柄。ね。それはお国を願うその内容と、お国の発展それを願う内容として、まず第一に、天皇、皇后、両陛下の事の御万態を願わしてもらう。日本の良性を願わしてもらう。それに続いては、皇室方の事までも願っておった。教団の事んなると、金光教の、いわゆる中心であるところの、ね、金光様の、言わば、御健康を本気で願わせてもらわんならんと、こう教えられて、その事をくり返し願わせしてもろうて、まあ、金光家、ね、金光家全般にわたって願わしてもらう。ね。九州中の事を願わしてもらう、福岡近所の事を願わしてもらう、またはじゃ、三井郡でしたから、三井の事、三井群上の事を願わしてもらう、草野中の事を願わしてもらう、隣近所の事を願わしてもらう、ね、親戚中の事を願わしてもらう、もう自分一家の事を願う、自分の本当に一番最後になる。そういう願いをくり返しくり返し、まあ、させて頂いたもんです。けれどもですね、一つも、その、教えに本当に取り組んでいないですから、そりゃもう当たり前の唱え言葉のように、ただ唱えておっただけであって、果して天皇陛下の事、ね。私はだから申しました。「はあ、天皇陛下、皇后陛下の事をお願いせんならんと言いながらです、天長節に旗立てるとを忘れるごたるごって願うたっちゃ何にならんよ。」ち私言うた(笑)。そうでしょうが。「(?)毎日参って天皇陛下の事お願いしよって、天皇陛下の誕生日すら知らん。旗立てるとさえ忘れとるちゅうごたる事で、天皇陛下の事願うとるとは言われん。そんなら願わん方がましだ。」と私言うた。ね。その頃から、いわゆる、何ていうですか、合楽では、いわゆる「実感」という言葉をたくさん使うようになりましたですね。その実感そのものが、神様に通うのが通じるのです。ね。例え通じても、その、んなら、その実感の内容がね、神様の心に適わなかったら、通じただけで、おかげになって返ってこないだろうけれどもです。やはり通じる事は通じるです、実感なんですから。それを、例えばもう腹が立ってたまらん。これはもう腹が立つという事は実感なんだから。そういう実感、が神様に向けられていかなきゃならんと言うて、(?さん?)に教導さして頂いたんです。私自身もそういうふうにだんだんなってきた。ね。私が、そいうですねー、例えば天地拝仕ですね、あの拝仕を、おー、いわゆる天上国家の事を願わして、えー、全、んー、えー、総氏子の身上安全、ね、と言ったような、その祈りの言葉がその内容にありますがね、どうしてもその実感が伴なわん、ただ言うておるだけである。けれども、それをくり返しくり返し言うておるうちにですね、何かの拍子にふっとですね、こりゃあ世界中の事を願わなければおられない、という実感が生まれてきた事も事実です。ですからね、その事をやはり思い続ける願い続けるという事は大事な事でね。私はまだ世界真の平和なんていうふうに、その、スルスルっと出てきましぇんけれどもですね、ね、とにかく、そこに戦争があっておったり、そこに生活の生活苦があったり。私はある時テレビを見せて頂きよったら、オーストラリアの、おー、いわゆる砂漠地帯の所の、ま、あー、原住民人達がですね、もう、それこそ何にもいらんわけですね、真っ裸で過ごせる所ですから。親子三人の者がですね、とにかくその日の糧を得さえすればいいわけなんです。だから、あー、着るのは布団ではなくて砂布団です。砂をこうこう振ってから砂ん中に入って寝る。食べ物は何かと言うと、ちょうど一尺か二尺くらいのですね、感じの、その、トカゲを追うて回る。これが親子三人の仕事です。まあ、(?)それから子供達までそのトカゲを追うことが大変上手になって、そういう、そのー、情景をですね、テレビで見せて頂いておったら、こりゃー世界中にまーだまーだこのようにも開けてない、ね、所があるんだと。この人達の上に例えば、その、文明とか、んー、文化とかと、まだまだ程遠いことであろうが、この人達のため、私をずっとそれを、あの、見せて頂きながらですね、そんトカゲを取り逃がすんですよ。それを追いかけて行くわけです。そのテレビを見ながら、「どうぞ、どうぞ捕まりますように。」それを捕らなければ、今日は(食べん?)ならんとじゃもんそん人達は。そっで、テレビ見ながら一生懸命御祈念させて頂きよった。ね。そういうのはですね、どっと自分の心に、そのー、そういうことが響いてきた時ですね、「こりゃー世界の隅々のことを願わにゃいけんなー。」と芯から思いました。もう奥の奥のそれこそ、人間が行ったこともない中んにでも、やはり人間が生息しておって、そういう原始的な生活をしておる。恵まれない生活をしておる人がたくさんある。ね。本当に、世界の隅々の総氏子と、何かもうこうもう私共と同等の人達ばっかりのような感じの思い。そうじゃない。私達ぐらいなことで、とても不平どん不足どん言う段じゃあない、私共は。世界の隅々にまだこういう難儀な人達がたくさんあるんだと思うたらです、こりゃー世界真の平和もばってんか、世界の隅々の人達がですね、本当に立ち行くおかげを受けなきゃならんなーということです。まだ世界の隅々にはです、もう60か65くらいになったら、いわゆる、物語にあるように(?)世界がまだあるということです。なんという悲しいことがまだ実際に世界の隅々に現存しておるということ。ね。子供が親を、言わば、捨てに行くというなんてそんな哀れなことだろうかとこう思うです。事実そういうところがあってる。ね。ですからね、ですから本当に私共のその願いというものがね、やはり信心が進展していくということは、その願いが実感として自分の周辺のことが、切実に祈れていくようになることだと思うですね信心は。ね。だからそれを願わにゃならんということじゃないですけど、そうです。ね。なら、(?あたりの)の戦争のことを毎日新聞事情で報道されておりますよね。それを見しぇて頂いておってです、まあそこに基があってけんかを言わばしておるわけだから、けんかすんならしてよいけれども、けれどもやはり、けんかしながらでも立ち行かなければならない、ということだけは願いに(???)まだ真の平和と、おー、願うという気持ちはまだ、なんか少しピタっときましぇんけどね、もう現実、もう今月今日のこのままの様相がです、(?その?)様相の中からです、ね、少しでもおかげ頂いて、少しでも皆が立ち行くことを祈らなければ願わなければ、これはもう現在私の、もう祈りのですね、中心になるもの。おかげ頂いたもんだなー、世界の隅々のことがこの頃祈れるように、まだ真中んことは祈れないけれど。ね。いわゆる、秋山さんが(???)結局、「世のお役に立ちたい」という一念の願いでなからなければならないということがです、難しいと言うて、けれどもそれに取り組んでおられるからにはです、必ずです、神様がそのようなヒントを必ず与えてくださる。「はあ、これが、世のお役に立つということはこういうことなんだ。こういう一念を燃やすことだ。」とその一念を燃やして、いわゆる、願いができるようになられることだろうと私は思います。原さんが「願いということになってくると、喉に詰まって引っかかったような感じです。」と言われるのがです、何かの拍子にストッと出た時に、それこそ純粋な心で、スルスルっと願いなさる時期が必ず来る。これは、話を聞いただけじゃいかん。やはり、頭で分かって、心に感じてそれを、本当にそうでなかなければならんと、それに取り組んで行じていくうちにです、私分かるもんじゃなかろうかというふうに思うのです。ね。昨日、霊祭が終わりましてから、えー、私は(???)こちらへ帰りましたら、小倉の富永先生達夫婦と野口さん達ご夫婦と、私に挨拶して帰りたいと言うてから、控えで待っておられました。まあでも、お茶でも差し上げながらいろいろお話させて頂いて、あのー、「本当に先生、世のお役に立つということは、そのー、世のお役に立つというその実感というものは、あー、大変なことですね。」という話でございました。ですからですね、自分のその職業というかね、自分の職業、手近なところに、そのー、世のお役に立つ、特にお医者さんですから、毎日毎日たくさんな患者、とりわけ「もうこりゃー難しかろう」と言ったような、んー、人達の、おー、診られる時なんかは、いちいち電話でお取次ぎを願われてから、その、おー、治療または手術なんかにかかられるわけです。そういう時にはですね、もう自分のその、(?もんづ?)にかけてとか、そういうようなものがない、なくなっていくらしいですねー。尊い仕事だと思うですね、お医者さんという仕事は。もうね、問題はね、この人が助かりさえすれば良いと思うそうです。いよいよの、その患者にあれするとですね。まあ、それと同じようなこっですけども、昨日、ちょうど、おー、朝の御祈念の後に、えー、必ず小野先生が参って見えます。で、この頃必ず御理解頂かれよりますが、御理解半ばに電話がかかってきた。「急患ですから、すぐ帰ってくれ。」というわけである。それで、まあ、「どういうことか分からんけれども。」と言うて、お取次ぎを(??頂いて??)帰られた。で、またすぐ電話かかってきたところが、もうーそれこそ、おー、「大変な重体、もうとにかく手術をしなければならないけれどもね、んー、血圧がもう低くなってしまっとるから手術ができない。もう死を待つ他ない。」ちいうわけなんです。(?)あいにく今日は、お休みで、そのー、血液銀行ちいうですか、それがそのー、今日は、ダメだっちいうわけなんです。「とにかく、よろしくお願いいたします。」ということだった。(???)昨日私はちょうど、下がろうとする、下がろうと思うて、あのー、いろいろしよるところへ、(???)から、私は「おかげ頂くな。」と思ったですね。タイミングが良かです。ありゃもう私が下がって、もうそういう時には私が寝とったっちゃ、しゃっち(???)起こしから、「親先生、御結界ついてください。」と言ってから願われるんです、いつもね、あの先生は。けどそんなふうで、今日なんかは、もう私が下がろうとするところに、そういう電話でしたからね、「こりゃーおかげ頂くな。」と思っておりましたがね、そのー、昨日、おー、ちょうどお祭りが済んだ後に、「とりあえず、(???)にお礼申し上げます。」と言うて、お電話がかかってきた。(???)と、おかげを頂いてですね、えー、ま、「助かる」というまあ、あれがついたところけどですね。そういうその、(???)な時にはですね、小野病院が何とか(???)じゃなくてですね、「もうとにかく、この人が助かりさえすればよい。」という一念が、(???)やっぱり、富永先生も、そういう意味のことを言っておられましたが、だから、なら昨日の御理解ですね、昨日の、私が、あのー、お祭り後にお話しましたようにです、「それがただ、「人が助かりさえすればよい」というのがですね、信心に基づいて成される時に、先生、あなた方お徳を受けられることでしょう。」と言うて、まあ、お話したことです。ね。ですから、な、皆さん(???)ですね、もう一番手近な職業の、職業を通してですね、私はそのー、「世のお役に立ちたい」ということを、いつも念じ、心がけておられたらです、だんだんそれが実感として、「自分のこの仕事が天職だ。」と、「神様に与えられた天職だ。」というような、思い方ができるよんになるのじゃないでしょうか。「儲けだすためにこの商売しとる。」と言ったようなもんじゃなくて、言うなら、天職。ね。だから、その天職が、御天職と(?あしめる?)ためにです、これはお百姓さんでも同じことですよ。それが天職であるという、ね、頂き方の中からです、世のお役に立たせて頂く実りがだんだん実感としてできてくるじゃないだろうか、日々の教えを基にしてです、そこんところの、いわゆるコントロールというでしょうかね、教えとその仕事が日々取り組んで、何とはなしに、そこから、いわば、今まで分からないことすらが、分からなかったことが分かってきたり、ね、今まで求めつづけておった分からなかったことが翻然としてそこから分かってきたりというような、私はおかげが頂けると思うですね。そういうことです、「わが心からも練り出す」というとこ。ね。教え、自分の自分の仕事、いうならそれを天職と感じれれ、自分の仕事を天職というところまで、高めていくということ。しかも、それが日々の教えによって、こう、おー、んー、ね、いわゆるコントロールされていくという。そこから、今まで、今までは感じようともしなかったこと、分かろうとも思わなかったことが、分かってきたり、分からないと思うところが分かってきたりする。いわゆる、秋山さんのそれであり、原さんのそれなんだ。ね。「信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。」というのは、これは、んなら、一つ聞いとったことを、ずっと(?じょうの上に現せば?)それで良いか、と言ったようなことでは決してないということ。ね。これは、取り分け合楽の場合なんかは、んなら、10日間お参りをやめてですね、教えに遠ざかっておったらです、もう言うておることが、すでに、もう実に、色彩を(?欠いで?)しまったような、いきいきしたものの何にも感じられないことしか、言えない程度の、いわば、ね、枯れたようなおかげしか、それが伴のうてないものを感ずる。ね。「話を聞くだけが能でない。」と言うのですから、んなら話は聞かんで、行じて、行じたいさえおりゃええ、自分のこのことを守り抜いておるから、家業の行じゃから、何ていうようなことをいかにそれは本当でないことかを、私は今日はここに、ここの41節から感じます。ね。「話を聞くだけが能でない。」ということは、ね、いかに話を聞かなければならないかということであると同時に、ならその話を聞いた上にも聞かして頂いたことが、わが心からも練り出されるということ。それを、今日は、まあ、いろんな、例をもって申しましたですね。わが心からも練り出されてくる。ね。そして、分からなかったところが分かってくる。いわば、分からなかったとこすら分からなかった自分がだんだんそこにはっきりしてくる。そして何かの、いわば、あー、機会に、ね、チャンスをおうというか、そこからです、ね、例えて言うと、今よりももっとましな、広い範囲においての、世のお役に立たして頂きたい一心というようなものが、この、実感として出てくる。ね。「わが心からも練り出すがよい。」というのは、自分の仕事、自分の持ち場、立場といったようなものをです、もっともっと高度化していかなきゃならないということ。「これが自分の天職だ。」と思えれるところまでいかなければならんことだと。「もう、こげな商売どん、(?孫子の末まで?)させるもんじゃありませんよ。」と言ったようなことであってはならないということ。自分の仕事に惚れ込む。しかもそれは、「神様から与えられた仕事だ。」と思い込めれるところまでいかなければ、その商売は繁盛しない。ね。その天職というように、分からして頂くところからです、その、天職に、日々の生き生きとした教えが、入ってくる。ね。いわゆるコントロールとこう申します。
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